アシストシステムには、高校2年生から化学の単科授業を受け始めて以来、実に6年もの長い間お世話になりました。
1浪が決まった時、私は別の予備校に入り、アシストシステムでは単科で化学の授業を受けていました。しかし、自分が本当にやりたいものが漠然としすぎて悩み、勉強に身が入らなくなってすぐに予備校での授業についていけなくなってしまい、そのうち勉強に対する意欲が全くなくなって、予備校もアシストもさぼりがちになりました。ここでついたさぼりぐせが後を引き、2浪目、3浪目とだらだらと過ごしました。
3浪目で医学部に落ち、滑り止めで受かった東京薬科大学の生命科学部に入学しました。生命科学部は主に、DNAやタンパク質の構造解析・分析等を行い、医療分野においてあらたな治療法を研究・開発することを目的とした学部であり、私にとっては臨床医学の次に興味のあった分野だったので受けました。実際入学するまでは、臨床医になりたいのか、研究者になりたいのか、自分自身よくわかっていなかった事もあり、また、3年間もだらだらと過ごしてしまった負い目もあって、とりあえず大学に入ってみた、という形になりました。しかし、小さい頃から私の憧れである両親のような医師になる事が私の夢だったので、その理想からどんどん外れて行く自分に強い焦りを感じました。だから、私はもう一度医学部を目指そうと考えるようになりました。3年間も猶予をもらって成し遂げる事ができなかったのだから、とにかく生命科学部を卒業してから働いて、親に頼らずにもう一度医学部を受験しようと思っていたのです。
ところが、親というのはすごいもので、そんな私の考えを見抜いていました。親がサポートできる間は、やりたいことをやってほしい、そう言われました。私はその時、大学をやめることなど考えてもいなかったので、親の言葉に驚くと同時に、ここでもう一度やらなければと思いました。それまで適当に過ごしてきた自分に自信がなかったし、このまま行けば一生適当で生きていくのだろうと思い、不安も感じていました。だから、やるなら今しかないと思ったのです。
しかし、思うのは簡単ですが、実際もう一度受験ができるかどうかという問題がありました。この時は既に8月も終わり頃でした。受験の前半戦が終了している時期です。今から受験に戻って、勝算はあるのだろうか。3年間も無為に過ごしてきた私に、できるのだろうか。
親と相談した結果、作業療法士を目指す案が出ました。作業療法士とは、障害を持った人が社会復帰をする為の手助けをする人のことです。この仕事も私のなりたいものにあてはまりました。医学部は無理かもしれないから、国立は作業療法士を目指せるところを受け、ついでに私立の医学部を受けてみようという事になりました。
再受験するとなれば、一番良い場所はアシストシステムしかないと思いました。少人数制で質問しやすく、質問に対する答えも明解で、問題量も豊富で、何より私にとっては長年お世話になった所なので馴染み易いということからです。
それで私はアシストシステムに行き、早川先生に相談しました。そうしたら、早川先生は、やり残した事がたくさんあるから、もう一度やり直してみたらいいんじゃないかと後押ししてくださいました。不安もあるだろうけれど、やってみる価値は十分にあると。ただ、私の決意次第だとおっしゃいました。悩んだ結果、両親と、早川先生の言葉に後押しされ、再受験を決意しました。
10月から本科生になりました。この時点で最初の入試日まであとわずか3ヶ月。受験から離れていたのは半年程ですが、それでも受験勉強を忘れかけており、最初は思い出すのに必死でした。11月頃からペースを取り戻し、半年分の遅れを取り戻す為に、寝袋持参で毎日アシストシステムに泊まり込みで2ヶ月とことん勉強しました。私は英語が得意で、化学と生物はそこそこでしたが、数学がかなり苦手だったので、最初の2ヶ月はじっくり数学に取り組んで、化学と生物は12月から本格的に詰め込みました。わからない所は逐一質問に行き、どんな問題を解けばいいのかアドバイスをもらい、できるだけ忠実に要領よく勉強して行きました。早川先生も朝の9時から、遅い時には夜の1時、2時まで残って質問に答えて下さり、試験直前には塾生全員で先生と泊まり込んで、先生についてもらって徹夜で勉強しました。
塾外からも現役・浪人生を集めて朝8時から夜10時までひたすら入試問題を解き続ける、アシスト恒例の合宿にも参加しました。アシストの冬合宿は年末から年始にかけて1週間あり、私はこの合宿の前半をセンター試験問題に費やし、後半を私立医大の過去問に費やしました。私立医大は主に川崎医科大学の問題を解きました。川崎医大は私立医科大学の入試日程の中でトップバッターであり、絶対に受かりたかったからです。ところがここで問題が発生しました。私は英語では8割を切らない自信があったのですが、いざ川崎医大の英語の問題を解いてみたら、何と40点台。3年分やってみたのですが全部が50点前後でした。入試直前にして一気に自信喪失です。理系科目が弱い分、頼みは英語だったのに、これがダメになると絶対無理だ、と目の前が真っ暗になりました。気分転換にセンター試験問題を解いてみたのですが、影響を受けてか、これまた人生最低点をとり、もうとことん落ち込みました。その日はさよならも言わずに泣きながら帰った覚えがあります。しかし入試は直前に迫っているし、ここで立ち直れなかったら再受験しに戻った意味がないと思い、気分を入れ替えて、解き終えた過去問の見直しをする事にしました。そうしたら、川崎医大のクセが見えて来て、解き方がわかったんです。そうしてもう一度別の年度の問題を解いてみたら、やっと8割以上取れるようになりました。これで一気に自信をつけました。私立医大の受験には、過去問を解く事は大いに意味があると思います。各大学によってクセがあるため、慣れないと解きにくい場合が多いからです。私は受験する大学の過去問題を大体10年分ずつ解きました。
こうして、日程的には本当にギリギリでしたが、数学もやっと人並みにできるようになり、なんとか間にあったという感じで、私立医大のトップバッターである川崎医科大学の入試日を迎えました。表向きはついでという事でしたが、私としては何としてでも医学部に行きたい一心で受験しました。数学はあまり自信なかったのですが、理科と英語はまあまあの出来でした。結果は無事合格、しかも特待合格でした。私自身本当に受かってしまった事実に、嬉しいよりも腰が抜けた、という感じでした。
その後のセンター試験では、788/900という、人生最高得点をマークし、また東京医科大学の1次合格も果たし、本当に、戻って来てよかったと思いました。川崎医大に受かったので、国立も医学部を受けようと言う事になり、その後の受験予定も大幅に減らして国立医学部に挑戦しましたが、これは残念ながら不合格に終わりました。でも、医学部に入りさえすればいいとそれだけを願って勉強してきたし、その願いが果たされて、今は最高に幸せだと思います。
受験を終えた今、共に勉強してきたアシストシステムの塾生に出会えた事を嬉しく思います。朝から晩まで寝食を共にし、皆が互いを思いやりながら、支え合い、励まし合い、良きライバルとして過ごしてきました。今では全員が兄弟のように仲良しです。生涯付き合って行きたいと思うような友達に巡り会えたことも、アシストシステムを選んで良かったと思える点です。皆ありがとう。
最後に、私のわがままを許してくれた両親、兄姉、そして6年という長い年月、良きアドバイザーとして、良きサポーターとして私を支えて下さった早川先生を初め、ゆみさん(早川先生の奥様)、田村先生、宇田先生、森口先生、その他アシストシステムを支える多くの先生方に心から感謝します。
私が長い浪人生活の中で得たものは、「できるかどうかではなく、やるかどうか」に尽きると思います。長かった浪人生活の中で、辛い事も苦しい事もたくさんありましたが、今となってはその全てが良い思い出です。私が今胸を張っていられるのは、アシストシステムのおかげです。勉強だけでなく社会生活をするうえでも、多くを学びました。アシストシステムがあって良かった。人間的に大きく成長したと思います。長い間お世話になりました。これからはしっかり、自信を持って自分の道を歩んで行こうと思います。本当にありがとうございました。
≪アシストシステムより≫
友里ちゃんへ 長かったねぇ。ほんとは友里ちゃん、なんて”ちゃん”づけで呼んだらダメなんだろうけど、つい…高校生の頃のイメージが強くて…ごめんね。再受験を決意するのには大変な勇気が必要だったのでしょうね。でも、その「賭」には見事に勝ちましたね。この長い期間は友里ちゃんには必要なものだったのだと思います。人間的に一回りも二回りも大きくなった友里ちゃんが、素晴らしい医師となることを確信しています。しんどかったけど…楽しかったよね。(早川)
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